深沢七郎『楢山節考』

寒村の姥捨を題材とした作品。
と言ってすぐにイメージされるような、前近代的風習の残酷さを批判した作品でもなければ、
人間の身勝手さをさらけ出そうとしたものでもない。

主人公格として描かれる老婆の「おりん」は、山へ捨てられる日を待ち望み、
潔くこの世を去ろうとする。
母を捨てるのが辛く、楢山行きの日を延ばそうとする息子の辰平を元気付けながら、
きっぱりと死に向かって進んで行く。

毅然として死を受け入れるおりんと、悲しみを押し殺して母を山に置き去る辰平。
二人の静かな愛情に呼応するように、楢山には雪が降る。
(楢山行きの日に雪が降ることは、縁起が良いとされている)

それとは対称的に、隣家の「又やん」は捨てられるのを怖がり、抵抗し、
最後には縄で縛られ、息子から谷底へ突き落とされる。

おりんの見せた潔さには、思わず背筋が伸びる。
自分も死ぬ時には、こうありたいものだと思う。
どうせなら、死にたくないと思って死ぬよりも、前向きに死にたい。

また辰平の、辛くてしょうがないが、
せめて、最後に雪を見た喜びを母と分かち合いたいという気持ちにも、もちろん共感できる。

雪の冷たさと、痛いほどに澄んだ空気。
二人の別れの情景は、洗われるように美しかった。

しかし一方で、最後まで捨てられるのに抵抗した又やんの、
見苦しくて、情けなくて、大迷惑な態度も、決して悪くない。
無理やり事を運ばざるを得なかったその息子の、
苛立ちからくる冷たい振る舞いも、決して悪いもんじゃない。
おそらく作者自身も、否定的な意識で描いていない。

おりんの孫夫婦は、新しく子供が生まれてくるところで、
口減しができた事を、無邪気にありがたがっているが、
これも作者は否定的に描いていない。
もっと年下の孫たちが、おりんのいなくなった理由を
辰平に説明されるまでもなく承知していて、受け入れている事も
否定的にも肯定的にも描かれていない。

退屈で、貧しくて、祭りくらいしか楽しみがない小さな山村のありのままが、
ただそこにあるものとして書かれているだけなのだ。

ところで「楢山節」とは、こんな歌。
村人たちが日常的に口ずさんでいるような歌だ。

かやの木ぎんやんひきずり女
せがれ孫からねずみっ子抱いた

「ひきずり女」はインラン女という意味。
「ねずみっ子」はひ孫のことで、食料の足りないこの村では
多産・早婚でひ孫まで出来てしまうことは人から眉を顰められることだった。

他にも5番くらいまで歌詞はあって、また村人が替え歌をしたり、
新しく歌詞を作ったりしちゃっているのだが、
要するにこんなこと言っちゃっていいの? って歌を、
大人も子供も当たり前のように口ずさんでる。

別に「ぎんやん」を始め、歌われている人物を
いじめたり、笑ったりっていうわけじゃない。
ただ、歌が存在するから、鼻歌のように、歌っているだけなのだ。

それと同様に、この小説自体も
残酷な風習への批判とか、地方の農村の生活の厳しさを云々、
という小さな作為の産物では決してない。

深沢七郎という、どうにも変わった作家が、
ただそこにあるものとして、描いただけなんだ、と思う。

遠い(あるいは、そう遠くない)過去に、我々のルーツにあった暮らしの様が、
考えさせるでもなく、訴えかけるでもなく、
ただ雪のように、しんしんと心に染み込んでくる小説だ。

ただ単に、そういうものなんだ。
それが、きたなくて美しい、生きることの味なんだ。

なんだかこの小説を読むにあたっては、
コーヒーだなんてぜいたくでもってのほかな気がしてしまう。
番茶か、水道水でもアテにして読むべし。

次に読むべきは・・・

普通で常識的な都市感覚から遊離したついでに、
もう1冊、素朴で、田舎臭くて、人間と世界を真正面から見つめすぎたゆえに
かえってヘンテコなやつを。

田中小実昌『ポロポロ』

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